群馬県弓道の歴史

群馬県弓道の歴史
終戦までの概観

群馬県弓道連盟では平成2年連盟史を、引き続いて平成13年に続編を刊行し、県内弓道の概観をまとめている。
群馬は遺蹟の調査から石鏃の発掘が多く、弓矢の歴史は古い。江戸時代には平和ではあったが、封建社会に武士が威力を鼓舞するためにも通し矢が盛んに行われた。石岡久夫氏によると、京都の通し矢が天下一と、一般や武士に評判となると、三代将軍家光のとき江戸に三十三間堂を創建、幕末まで続けられる。上州では沼田藩(道雪派2名)、厩橋藩(派不明2名)、館林藩(道雪9名、派不明2名)、高崎藩(道雪4名)、七日市藩(道雪1名)の参加があり、厩橋藩の町田小助が元禄10(1697)年、総矢数10,515本、通矢数5,353本の輝かしい記録を残している。

半堂(60米)通矢では館林藩の井上三之助(14歳)が寛政6(1794)年、総矢数11,996本、通矢数11,745本と少年としては驚くべき成績である。
平成16年刊行された富岡弓道史に、この地域は館林藩大沼優之助忠興の嫡孫虎之助が
一の宮に寄寓し、沢田吉五郎らに日置流雪荷派弓道を教えたとある。
優之助は寛政9(1798)年、7歳にして半堂千射、938本で江戸一となる。5回
出場で2回優勝し、館林藩弓術師範として多くの弟子を育てた。
甘楽富岡地域は大沼らの射術が引き継がれ、明治、大正、昭和を経て、矢野利十郎、高麗長太郎など多くの弓人を輩出、現在の隆盛に至っている。

明治維新以降欧化思想が盛んで、近代国家として急速に発展する中で、弓道など古来の文化の退廃する姿が見られる。
心ある有志が立ち上がり、明治28年京都に「大日本武徳会」が発足、武徳殿の建設により毎年武徳祭が開催され、各県支部から柔道、剣道、弓道の参加者は年々増加し、武道の振興普及が進む。
(別項表参照)
明治32年県支部は正会員9,850名で発足、明治40年前橋に武徳殿が完成した。支部長は県知事が勤め、各警察署毎に支所を置き、演武祭、段級審査など諸活動が活発に行われ幾多の変遷を経て昭和20年まで武道人の組織として発展した。

【明治39年 大日本武徳会群馬県支部】

一方弓道は他の武道と同じく、多くの流派が普及発展に力を注いだ。
小笠原流を学んだ田中啓三郎、椎名栄三郎、高塚徳太郎、五十嵐仲蔵、射徳会(師長谷部慶助)の飯野喜理、_橋昭作、本多流の亀井朋次、茂木_太郎、亀井の門下荻原喜代次、
大射道教(師神永政吉)の宇治川安蔵、渡辺明康など、その他一流派にこだわらず、他流の射術を学ぶものも出てきた。
根矢鹿児(師、本多利実)が明治42年創設した大日本弓術会(のちの大日本弓道会)は全国に支部を作り、機関誌発行など弓道普及に積極的活動を進める。
県内にも中野(現館林、明治45年)、桐生(大正6年)、高崎(大正8年)、渋川(昭和2年)、水上(昭和5年)、草津(昭和7年)の6支部が次々に設立され、例会、射会など活動を展開した。
明治から昭和前期の上毛新聞の記事を見ると、武道記事がトップを飾る。武道に対する関心の高さを思わせる。

大日本武徳会はその活動が全国的に盛んになり、毎年5月開催の京都の武徳祭演武に本県からも参加した。弓道部は小的の部、大的の部。

大正15年の参加者[まだ教士無し]
 支部委員紹介の部   横山禎七、高塚徳太郎
 精錬証(錬士)の部  高麗長太郎、出口正一、飯塚浅次郎、飯野喜理、田中啓三郎、荻原喜代次

昭和5年の記録を見ると参加者は増える。
 初段、二、三、四段の部  氏名略
 精錬証(錬士)の部  荻原喜代次、田中啓三郎、赤間民治、茂木_太郎、
 教士の部       五十嵐仲蔵、高塚徳太郎、膳栄次郎

昭和16年第45回演武会には総参加1,535名
 群馬から21名参加、高麗教士が審判員を勤める。
 三段の部  松田 鎮
 四段の部  伊藤達太、斉藤幸昌、斉藤友治、稲毛田光次郎、椎名栄三郎、
       谷名友政、内田喜代、宇治川安蔵、大野茂太郎、上杉数馬
 錬士の部  古川 洋、岩井 清、山口登喜太、井上義蔵、渡辺明康、
       青木三代吉
 教士の部  膳政之助、高塚徳太郎、飯野喜理、高麗長太郎

▶大日本武徳会主催の武徳祭演武の参加数
注:1.精錬証が昭和9年より錬士と変わる。
           2.昭和15年第44回武徳祭は紀元二千六百年奉祝大演武会。

県外で活躍した射手
 ◎第10回明治神宮国民体育大会(現在の国体)昭和14年
  男子中等学校 府県対抗個人の部 優勝 _山弘一(高崎商業)
 ◎紀元二千六百年奉祝天覧指定選士に選ばれる。 教士 飯野喜理(安中)
           昭和15年 皇居内済寧館

大日本武徳会は終戦により昭和21年11月解散命令により解散。
 当時の県支部には有給と無給の12名の教師がいた。
 [有給教師] 教士  高麗長太郎(富岡)
高塚徳太郎(渋川)
五十嵐仲蔵(高崎)
錬士  青木三代吉(前橋)
斉藤友治 (前橋)
[名誉教師] 錬士  荻原喜代次(伊勢崎)
岩井 清 (水上)
井上義蔵 (前橋)
渡辺明康 (桐生)
山口登喜太(前橋)
古川 洋 (前橋)
     一等  稲毛田光次郎(前橋)
◎注: ◎有給教師 大正13年より終戦時までの間、任命された有給教師には
          月額3円~15円支給されていた。
    ◎一  等 昭和18年に称号等級審査規定改正し教士を達士に、等級は
          一等から五等までとし、従来の初段が五等に、順次進んで
          五段を一等とした。
職場弓道 次の職場で武徳会会員として活躍した。
 前橋刑務所
 高崎駅
 中島飛行機(太田)
 日清製粉高崎工場
 日本製粉高崎工場
 日本ニッケル(鬼石)
 高崎板紙(株)など
学校弓道
 前橋女、高崎女、富岡女、吾妻女、安中女、伊勢崎女、館林女、桐生女、
 前橋家政、高崎実践、境実科女、高崎商業、前橋商業、前橋中、高崎中、
 沼田中、群馬師範など

県中等学校弓道大会は女学校の参加が多かったので、前女または武徳殿が会場となった。

戦後の復興期

戦時中武道教育の期待が大きかっただけに、戦後の反動は大きかった。文部省(現・文部科学省)は連合軍司令官マッカーサー元帥の命を受け、学校からの封建的、軍国主義的色調を完全払拭するため、武道の禁止が指示される。

大日本武徳会は文部省と折衝する中で、今後柔道、剣道、弓道等がそれぞれ同行者により民主的新組織を作り、国民的スポーツの更正発展のため自主的解散を宣言したが、GHQの意向が強く昭和21年11月7日解散を命ぜられた

当時の大日本武徳会役員
(昭和21年6月7日現在)弓道関係抜粋
副会長理事長 宇野要三郎
常務理事香坂 昌康
理 事小笠原 清明
監 事樋口  実
弓道部会長宇野要三郎
群馬県支部役員(弓道関係)
支部長北野 重雄(知事)
顧 問高麗 長太郎
常議員高塚 徳太郎
五十嵐 仲蔵
監 事山口 登喜太
支所長各警察署長

【有給】
教 士高塚 徳太郎(渋川)
五十嵐 仲蔵(岩鼻)
錬 士小笠原 清明
監 事青木 三代吉(南橘)
斉藤 友治(前橋)
【名誉】
教 士高麗 長太郎(富岡)
錬 士荻原 喜代次(伊勢崎)
岩井 清(水上)
井上 義蔵(木瀬)
渡辺 明康(桐生)
山口登喜太(前橋)
古川 洋(木瀬)
一 等稲毛田 光治郎(前橋)

昭和21年4月斉藤友治が、自邸内に道場を設け、有志に開放、やがて前橋親弓会再開される。県内にも組織結成の声があがり、会長高塚徳太郎、副会長五十嵐仲蔵、斉藤友治により群馬県弓道連盟が発足した。

大日本武徳会解散後昭和22年、全日本弓道連盟(会長宇野要三郎)が発足、群馬県弓道連盟もこれに参加する。会員数463名で有力な加盟団体となっていた。

前橋空襲で焼け残った武徳殿において4月23日春季大会、続いて第一回審査が4月27日開催される。

中央弓界では昭和23年12月、全日弓連が解散。昭和24年5月日本弓道連盟(会長樋口実)が24地連3団体で加盟し発足した